昭和52年02月20日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
信心はせんでもおかげはやってあると、いう程しのおかげ、そういうおかげを信心によって分からして貰う。ほんとにあれもおかげであった、これもおかげであったと分かって来る。そこからおかげの中にある私達、いわば、神恩報謝の生活が段段でけて来るようになる。しかもそれは限りがない。限りがない程のおかげを受けておる。私は最近その、その有り難さが少し分かってきたような気がする。
しかも惟はね、生涯かけて段段その有り難さは、深く広くなって行く事だろうと思う。惟が本当の有り難さだろうかと、思うようなものを、この頃時折感じる。それはもう言葉には言い尽くせない有り難さ、いわゆる、信心はせんでもおかげをやってあると言う、おかげに気付いて来たんだなと思う。お願いをする御取り次を頂いておかげを受けたと言う、思うようなおかげを頂いた、いや思う以上なおかげを頂いた、そういうおかげも間違いないおかげなのだけれども。
そういう有り難いのでは、ほんとの有り難いのではないようなこの頃である。目にも見えない、または、また形に表れてもいない、私共が今まで有り難いと思うておったのは、ただ氷山の一角である。目に見えない所のおかげも多いのだけれども、目に見えないから分からない。その分からなかった事が、分かって来るというのが、信心である。昨日、昨日は、いつも四時半に下がるんですけれども、丁度お参りが続いていましたから、五時頃まで、まだ御祈念もせんでお届けさして貰いよりましたたら。
福岡から三人の連れで参って見えた方が、時々月に何回か参って来る方達なんです。それがえらい時期外れに参って来たなていうて申しましたら、今日はお母さん、あんたがいつも久留米の方へ参いりよる所の金光様に、僕が自動車で乗せて行ってやろう、と言う。それで近所にお参りをする人達が二、三人おりますもんで、誘うて自動車いっぱいで、しかも息子の運転でお参りをして来たんです。その息子がどうしてそう言う事を言うかというと、息子は息子なりに、お願いがあったかららしいんです。
今、今度大学を卒業、京都の大学に何とか大学に行ってる所が今年は、就職難である。就職の事のお願いを、しかもでければ親の膝元で、福岡に職を求めたい、お願いをして頂きたいというので御座いますした。そしてその事を神様にお願いさせて貰いよりましたら、以前ご理解に頂いた事がありますけれども、荷物だけ行くよに馬は茅の影、と言う句でございます。荷物だけ行くよに馬は茅の影、山道なんかはこう低くなってますよね、そしてそれに茅がこう茂っておる、その山道を例えば下るか登るかしておる。
その馬が背に荷物を積んでおる。丁度こちらから見ておると、低い所を通ってますから、荷物だけが動いておる。荷物だけが行っておるかのように見える。肝心の馬は姿が茅の影で見えない、と言う句であります。今ねあなたの事をお願いしよったらこう言う事を頂いたが、どう言う事か分かるかね、ちゅうたら俳句なんかの心得も、やっぱり若い方達の、大学でも行くくらいだから分かるらしいんです。素晴らしい句ですね、と言うわけです。ね、これが分かるとね。
あなたおかげ頂くよというて私は申しました。いや分かりますその句の味わいと言うものが分かるという訳です。だから句の味わいではなくてね、例えて言うと三年間か四年間かね、あなた方が大学を受験そして卒業、いや是は大学だけの事じゃない、もほんとに生まれた時からね、親がここまでの育てると言う事には、随分苦労もして来たであろう、手にもかけて来た事でも、所謂手塩にかけてここまで育てて来たんだ。
いかにも自分が大きくなって、自分が勉強して学校へ行って、自分が頭が良かったから、良い大学に入れたように思っておるけれども、それは丁度荷物だけが動いておるように、肝心の馬は茅の陰に隠れておる、その隠れておる所が分からないからというて、自分が今日までいうならば育ったんだ、勉強して入ったんだと言う思いを振り捨てて、ほんとに僕がここまでおかげを頂いたこのためには、随分と親の手塩にかけられて来た事、心配をかけて来た事であろうと思うたら感謝の心が起きて来るじゃないか。
ましてなら信心ではそれを親のおかげと言う事と同時に、天地の恩恵天地のお恵みがあって今日までの、ここまでのお育てを頂いておるんだと言う事が、それが分からなければいけないんだよ、この句の意味だけではいけないんだよと言って、そしたらもうほんとに感心したような顔しましてね、だから僕はそこん所が分かったら、僕の願いどうりに職もあるだろうしかも、福岡に職を受ける事が出来るだろう。
どうでも是が分かってだからほんとに分かったか分からないか、良く考えてみてもう一辺、分かったら分かった御礼に出て来いというて、まぁ話した事でした。ね、もう二十何歳になるまで、それが分かってなかった自分でね、自分が勉強して自分が大学に行ったようなふうに親の祈りがあり、ね、親の手塩があってからここまで、しかもお道の信心の根本はここから始まるんだよと。若い人たちも沢山ここに来よるから少し出て信心の勉強をさして頂くと良いね、というて話した。
本人も有り難いと思ったらしい、横におります母親も、そうに有り難いようなふうをしとった。もうひとっつも親の言う事は聞きません、親の言う事が分かりません。親がどんなに親切に言うてもそれを僕達の、僕の考えがほんとのような思い方をする。ね、それを例えば親先生のご理解を頂いて、まあ分かった様な感動が見える。親もやっぱり喜んだ。ね、私は思うのにね、天地ははやる事もなし、はやる事なければ終わりもなし、と言う程しの、永遠につながる程しの、信心をお互い頂くので御座いますから。
そう一辺に簡単に私分かると言う事はないと思うです。私が最近ようやくその有り難さ、信心でいう有り難さとはこう言う事であろうか、と思うようになる有り難さをこの頃しかも時折感じる。ほ先生そげん有り難くなかっちゃろうか、真に有り難しと思う心すぐにみかげの始めと随分おかげも頂いて来とんなさるが、ね、先生は有り難うなしにおかげを頂だきなさったっちゃろうかと、思う人もありましょうけれども、私が言うのはね、信心はしていなくてもおかげはやってある、と言った様なおかげです。
そのおかげがほんとに分かって来た。しかもこれは限りがないだろう、この有り難さが発掘でけたら、もう後は次第にこの有り難さを感得させて貰う、体得させて貰うて愈々有り難い世界に住む事がでけるんだと思うほどしの、有り難さでなからなければ、ならない。お参りをする御教えを頂く、おかげを受ける有り難いはあ今日のご理解は有り難かった、それも有り難いのである。
それを守らせて貰うもう愈々有り難くなったかのように見える。初めて聞く御教えを頂いて、ほんな二十何年間過ごして来たけれど、こんな話は始めて聞いた、といういうならば新たなものへの、感じる有り難さというものを、それこそ其の場ででも、お母さん長い間お世話かけました、とお礼が言いたいような心が生まれてくる。私今朝お夢を頂いて、丁度教祖様が、あのお若い時にあちらこちらの神社仏閣に良くお参りになられた。ある時などはお四国参りなどもなさった。
一同と一緒にお参りされるけれども、一同のものはもう山の上の方にお祭りをしてある仏様やらもう、どこどこにお祭りしてあるなになに様というて下から拝む。それこそ谷底にお祭りしてあるような、いうならばお不動様のようなね、あの滝場の様な所によくお祭りしてありますから、お四国様もそうであろうと思うですが、そういう所はもう上の方から、下の方にござるなになにのお不動様、というて皆が拝む。 それでは自分が折角お参りをしたのに、真が届かぬように感じられたのでしょう。
いやそれが教祖の信心の、実意丁寧な所でおありになったと思うんですけれども、一々山の頂上まで登って拝まれ、谷底へ降りては矢張り拝んでいわゆる巡礼をして回られた。四国八十八カ所と申しますかね。そこをいわゆる札をうってまわられて、そして最後に舟に乗られる所までおいでられると、その後から連れの方達がようやくやって来てそこで同行の方達と一緒になられたと言うお話がご伝記に御座いますよね。
教祖様は休む所も休まんで、ずぅっとその駆け足のようにして回られたかと言うとそうではない。ね、恐らくそのまっいうなら、所々拝んでと言う様な人達はね、恐らく回り道をしたり、道を間違えたりそして、うろうろしておられるような事であったからこそ、まあ一緒になられるようなおかげに成った訳でしょう。私はあの今朝のお夢にね、そういうあの情景を、私自身がお参りをしておる所を頂くんです。十人あまりの矢張り御信者さん方と一緒にお参りをしておる。
でここに一服しましょうかと皆が言うと、まあまあ待ちなさいまちっと見晴らしのよかとこで休むというて、まぁそれこそ海が見えたり、素晴らしい景色のよかとこやらで、一服しながら、又はちょっと上に登ると飲み水が有ったりする様な所で、休んでいっておるお夢でした。信心もね私は休み休みしなけきゃいけない。休み休みちゅうとね、おかしいですけども、だからいきなり休んじゃいけないと言う事。
昨日まあ、( ? )雪の日に善導寺の原さんが、ここまで着かれてお参りして見えて、そして庭に入ってから転ばれた。しかも一時は立ちきらん位にひどかったらしい。とうとう起きられないで、しかもそれから熱が出て、起きられんでおられると。昌一郎さんたち夫婦は、あちらの昌一郎さんの奥さんのお母さんが、この七十八才で一昨日亡くなられた。そちらの方へ行っておる。家には誰もいない。
いわゆるあの千恵子さんの子供が一人おるだけで、千恵子さん「あんた行ってお世話しておいで」というて、まぁやりまして御神米を下げました。そして私は御神米に「転んでもただでは起きるな」と書いてやりました。ああも原さんの事ですから、そんな事ないです。もうそれを無駄になさるような事はないでしょうけれども、やっぱ先生が一口言うてやるとほんとに寝ながら、神様は何を分かれとこんな痛い思いをさして、転ばして解らして下さろうとしておるのであろうかと。
素晴らしい場所でいうならば、今休憩しておんなさるよなもんですよ。見晴らしのよい所で、もういうならばその休憩をね自分が自分の思いだけでしては、ね、言うなら例えば天地悠久のと言うようなね、始めもなければ終わりもないというほどしの、信心をさせて頂くのですから、そう一気にと言うばかりにはいけません。ね、それこそ休み休み、行かなければなりませんけれども、ね、休む場所があると言う事なんです。
高い石段でも登るときには、必ず途中に一服する所があるでしょう。必ず神様がね一服する所を作って下さるです。自分から一服しょうと思わなくても、神様がさせて下さる一服であるから有り難いのです。ご無礼したと言うような一服ではいけないと言う事です。おかげで一服させて頂いたというおかげを頂くために、私共は愈々天地日月の心になる事肝要と仰せられる、神様の心を心としての信心をさして頂く、天地日月の心というのは、天地の親神様の心そのもの全てである。
それを分けて言うならば天の心地の心、または日月の心天は与えてやまないもの、麗しの心である。地は受けて受けて受けぬく心、じっと黙って治める生き方、しかもそれが自分の血に肉になる、滋養になるような受け方があるのでだ。日月の心実意丁寧、いわば神信心日月の心、日月ほど正確無比な働きをして下さる事はなかろうと思われる程しに、日月の心はは正確でありますように。
私共もそういう日月の心に神習うていくと言う事は、もうよかよかと言う様な事ではいけないと言う事。もう今日は雨が降るけんでご無礼するちゅ事じゃいかん。降ろうが照ろうが日月はちゃんとお働き下さってあるのですから、それに神習わせて頂くと言う心。どんなに素晴らしい信心がでけておっても肝心要の所でよかよかでいったら、難しい信心がでけても、見やすい信心がでけなかったらそこからおかげが漏ってしまう。
難しい信心よりも見易いいやなそうと思うたら、子供でもなせるほどしの簡単な事を、おろそかにする事が、そこからおかげが漏っておる、そこからおかげが頂けるという分かれ道である。それを信心になっておらなければ、それが迂闊にして漏らしてしまう。心行、いつも自分の心にかけさせて頂く行がなされておると、手紙が来るすぐ返事を出さなければならないのに、もうよかよかというて何日もほうからかして、しまいにゃもう出しもせんと言ったような事ではいけないんだと。ね、
なそうと思うたら、子供でも成せる事を疎かにする、それをよかよか主義と言う。それじゃおかげの方も、よかよか主義になってしまうに違いありません。難かしい事ばかりが分かるのが信心じゃありません。本当にこうおかげが見えておるようなおかげを、おかげとも感じれない様な事ではでけん、ように実意丁寧神信心をさして貰う、そういう精進こそがです、天地日月の心になる事肝要だと仰せられる心。それを一口で纏めますと、天地金乃神様のお心を心としてと言う事になります。
その心を心としてと言う生き方を身に付けて参りますと、必ず天地との交流が始まります。 天地の交流が始まる、そのルートを辿っておかげは流れて来るのです。ね、その天地との交流が、一つの音響になってくるのです。リズムになって来るのです。ね、ですからそのりズムに乗っての生き方が段段分かって来る、しかもそれが微に細に渡って分かって来る様になる、そこに合楽理念と言うものがマスターさしてもろうて、行じさせて頂くことになったら、楽しゅうして嬉しゅうしてしかも有り難うして。
生涯かけてこの信心に取り組んでいけれると言う、勿論生涯かけなければ、私どもがあの世この世をかけての事なのですから、もういつまで信心すりゃよかと言った様なものじゃあありません。しかも頂かなければならんのは、限りない有り難さ、天地悠久いわゆる始めもなからなければ終わりもないという程しの、信心なのですからそういうリズムに乗っての信心生活が、でけるようになってくるから合楽理念は、楽しゅう有り難う、しかもお道の信心のぎりぎりの所、いやお道の信心ではない。
社会にこの有り難い信心を、いうなら和賀心時代を世界に広めて行こうと言う様な、おかげにもそのリズムに乗っていかなければ、いける事ではない。唯がむしゃらにいったんでは、いけません。そのリズムに乗っていく時にです、初めてここで休め、ここで一服という働きを感じれる事になるのです。ね、金光大神様という方は、そういう大変な信心を、天地の親神様のご依頼を受けて、私共にお取り次をして下さる訳です。ですからもう勉強と言うたら限りがありません。修行と言うても限りがありません。
というて生身を持っておる私共の事ですから、この神様は決して、人間離れのした信心をせろとおっしゃるのじゃないです。これを食べてはならんこれを飲んじゃならん、これをしてはならん、と言うのではない。人間が必要とするものは飲みもする、食べもするあれは食べません、これは飲みませんと言ったような事を修行のように思うておる人がある。それでは神様は喜びなさらん。神様が与えて下さるもの一切をです、有り難く頂くこそ修行なのです。
というて食べ過ぎたり飲み過ぎたり、し過ぎたりしてはいけないのです。もうこんなに素晴らしい信心は、もうこの事一ことについも素晴らしい信心だと言う事が分かります。私背信行為と言う様な事を申しますけれども、自分の心に背くと言うか、神様の心に背く生き方、あれは食べてはならん、是は飲んではならん、いや一つの願いをするために、茶断ち、塩断ち等と言う様な事が、昔の信心の中にありました。
そう言う事で神様の喜んで下さるだろうか、塩気をとらなにゃ体がもてんが、喉の乾く時には、お茶飲まにゃいやむしろ、その飲む事頂くここそ本当は、信心で頂かなければならないという事。自分がまぁ色々な場合です、自分で自分の心を縛るような、自分が背信行為をしておるような、気持ちで自分で自分の心を責めておる人がありますけれども、そういう事ではない、そう言う事では長く続かんと言うのです。
与えて下さるのものは、十分に有り難いと頂いて、無理して頂かんならんという事はありませんね、与えて下さるものは御恩恵とし、御恩恵のものとして有り難く頂く、そういう私は信心をさして貰う。しかもそこには教えと言う、必ずいうならば何ですかね、一つの音楽には楽譜というものが有ります様に、教えは一つの楽譜です。ですからそれを守っていくと必ず良い音律が出て来るのです。
その音律、その奏でられると心からそれが、奏でられるその音律に乗ってからのもの、それは天地の親神様のお心と通うから、天地と共にいわゆる日の光と言う、晃という字ですよね、日と光の音律が生まれてくる。そういう音律に私は合わせてリズムに乗っての生活を本当の意味においての信心生活だと言う風に思います。今日は御理解七節から、いよいよ有り難い調子の出てくる事のために。
「荷物だけ行くよに馬は茅の影」その茅の影に隠れておる所の、はあこれは馬の、馬がこの荷物を運んでいるんだという事。神様のおかげでこういうおかげを受けておるんだという事を愈々深く広く感じさしてもらい、分からして貰う、そこに天地日月の心になる事肝要と言う事を今日は皆さんに、昨日お取次ぎさせて頂いた若い学生の方に対するご理解を引用しながら聞いて頂きました。
どうぞ。